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「大切なのは、今よりこれから。未来の扉を開くのは、大人たちなんです。」

2020.08.202020.08.20
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★日本一の児童福祉施設を目指す河村善一さん(社会福祉法人 飛鳥学院院長)

戦後間もないころ、戦災孤児たちの保護を目的に初代理事長が創設した社会福祉法人飛鳥学院。さまざまな事情で親と離れて生活を送る児童養護施設を中心に、保育所や児童家庭支援センター、児童発達支援事業所などを開設。複雑・多様化する社会のニーズに対応すべく、子育ての社会支援システムの確立を図っています。それらの複数の施設運営を司っているのは、院長の河村善一さん。子どもたちの不公平感をなくし、子どもたちが「なりたい自分」になれることをミッションに掲げ、日本一の児童福祉施設を目指しています。

 

◆「おうち」は築73年の木造家屋

 

 昭和22年に建てられた伝統的木造建築。一見純和風旅館のような玄関やピカピカに磨き上げられた廊下など、築後70年以上経過しているとは思えないたたずまいが、子どもたちの“おうち”です。下校して午後5時をすぎると、早々にお風呂でさっぱりしてきた幼児たちや公文式のプリントに取り組む小学生、夕食のおかずを聞いてくる低学年児童など、どこにでもあるごく普通の放課後風景に心がなごみます。貧困や虐待、不登校、ひきこもりなどそれぞれの社会背景を背負いながら、自分の意思に関係なく寝食をともにしている者同士とはとても思えません。

 

「院長~っ!」と、河村さんを見つけてうれしそうに駆け寄ってくる子。今日あったことを逐一ていねいに報告する子。ふざけながらも施設内を案内しようとしてくれる親切な子。そんな光景にふれるだけで、親代わりでもある河村さんとの信頼関係が十分築かれていることは一目瞭然。そして、施設のトップでありがながら現場の隅々にまで気を配っている証しでもあります。

 

小学生から大学生まで、約70人を預かる重責。しかも卒業したらそれで終わりではなく、常に新しい入所児童と向き合っていかなければなりません。混沌とした時代がやまない限り、河村さんたちスタッフの心身が休まる暇などありません。

 

 ◆銀行マンから一転 児童福祉の道へ

 

1968年生まれ。吉野杉の集積地でもあった奈良県桜井市で材木商を営んでいた父・河村喜太郎氏の長男として誕生。「親の仕事をずっと見ていたので、いずれ自分もこの仕事をするのだろうなと思っていました」。ところが、高校生の時にオイルショックの影響で父親の会社は会社更生法を申請。これを機に、喜太郎氏は創始者の意思を継ぐべく本格的に児童福祉事業に乗り出したのです。

 

大学卒業後は河村善一院長は大手銀行に就職。バブル崩壊直後だったこともあり、債権者からの回収が至上命令でした。融資担当者として大晦日でも回収業務にあたった経験も。「まさに半沢直樹そのものでした(笑)」。

 

そして転機は突然訪れます。これまで専業主婦でありながら経営者の父親を支えてきた実母が若年性アルツハイマーに。「銀行マンにけりをつけて、実家に戻るべきかどうかずいぶん迷いました。親戚の中では賛成・反対真っ二つに分かれました。長男だからということもありましたが、少しずつ文字が書けなくなったり物事を忘れていく母を見ていると、戻るなら今しかないなと決断したんです」。

 

17年間の銀行生活にピリオドを打ち、母親に寄り添いながら現理事長でもある父親の事業をフォローしつつ自らも児童福祉の道へ。「悔いはありませんでした。自分の判断で決めたことですから。あるとすれば、支店長をやってみたかったことくらいですかね(笑)」。

 

福祉の仕事にスーパーマンはいらない

 

あれからすでに12年。一貫してポジティブで合理主義。自身のワークスタイルを聞くと、「現状をまず受け入れて、そこからどうするかを自分で判断して行動に移すこと。そしてチームワーク最優先。この仕事はスーパーマンが1人いたってできやしませんよ(笑)」。

 

この仕事に就いてから、毎日が自問自答の繰り返しでした。「正解がないといわれる子育てですが、そこでつまずいた大人たちによって子どもたちにしわ寄せがいく現実を、何度も何度も見てきました。かといって現状を悲観的にとらえるのではなく、すべて前向きに。やらないといけないことはたくさんあります」。多くの大人が関わっているからには、子どもたちの居場所を二重三重と複数つくっていくことが、児童福祉の使命であることがわかります。

 

話を聞いていると、管理職としての目標の立て方や顧客・上司対策、さらにはチームで仕事をすることの意義など、銀行マン時代に培ってきたノウハウが生かされているような気がしてなりません。要はきめ細やかさと配慮。そして先を読む洞察力と協調性が、児童福祉でも必要不可欠なのでしょう。

 

 ◆目指すは大学進学率100

 

子どもにとって一番大切なことは?「とにかく学校へ行かせることです。でも嫌々じゃいけません。そのためには学力が身につくようになること。それと友達を増やすこと。そうすれば学校が楽しくなり、不登校児童はなくなります」。入所児童の中には、劣悪な家庭環境で育ったせいで、10歳でも文字の読み書きができない子もいます。また、嘘をつくのが当たり前になってことごとく問題を起こす中学生もいます。「事が起きても、決してうやむやにしない。相手が誰であっても不公平な扱いはしない。そうした信念でスタッフとともに原因の究明と対策を打ち立てて、子どもに向き合っています」。その甲斐あって、現在不登校児童はゼロ。口先ではなく本気で子どもを信じていけば、こどもたちは応えてくれるということを実証しています。

 

施設を巣立った子どもたちはすでに1,000人以上。巣立った施設を懐かしそうに訪ねてくるOBも多くなりました。もちろん社会人として立派に成人した子もいます。目標は高校中退ゼロと、大学進学を希望する子どもたちの進学率100%。施設にいる子どもたちは、不幸なんかじゃありません。どの子もここへきたことで救われているのです。大切なのはこれから。日々子どもたちに寄り添いながら未来への扉を開いてやれる気概こそ、今求められる大人像に違いありません。

 

◆おじいちゃんとお風呂 ~エピローグにかえて~

 

「あすかへの道」と題した1冊の自叙伝があります。本書には、創始者・河村善次郎氏が戦後すぐに施設をつくろうとした思いなどが綴られています。その中で、終戦直前に帰国する際に日本海で旧ソ連軍の潜水艦によって搭乗していた船が撃沈され、100人以上の戦友を失いつつ12日間海の上を漂流、米軍の潜水艦に善次郎氏を含むわずか10数人だけが救われたという九死に一生を得た記述があります。「この体験があったからこそ、祖父は児童福祉に携わるようになったのだと思います」。

 

祖父が掲げた創業理念は、二宮尊徳(金次郎)が唱えた・勤倹・分度・推譲という「報徳精神」でした。特に推譲については、子どものころ祖父とお風呂に入ったときにこんなたとえ話をしてくれたことが今も強く心に残っています。「たらいの水を自分のほうへ手でかき寄せようとすると、水は左右から向こうに逃げていく。しかし逆に水を押しだすと、自然と左右から自分のほうへと返ってくる。情けは人のためならず。人のために奉仕をすれば、いずれ自分に返ってくるものだから、と」。

 

今は亡き善次郎おじいちゃん。もしかしたら「善一」という名前には、自分を超えて一流になってほしいという思いが託されているのかも知れません。

(取材・構成/池田厚司)