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「いつの時代もシェアの精神で。一人勝ちしようなんて思ったことはありません」。

2021.07.022021.07.02
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JAMDUNG・MADHILLS STUDIOシェアオーナー、ロッカーオペレーター(コインロッカー業務)オーナー/小川貴博さん(兵庫県神戸市)

バブル絶頂期、イベントプロデューサーとして全国規模のイベントを数多く手がけてきた小川貴博さん(神戸市)。一方で、ジャマイカの歴史や文化に魅了されてデビューを果たしたレゲエアーティストでもあります。文字通り、バブリーな昭和を駆け抜けてきた男。決して、そこのけそこのけ小川が通る!ではなく、ワークスタイルの根底にあったのはシェアの精神でした。

 

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◆のめり込んでしまう性格

 

神戸市中央区北野町。複雑に入り組んだ急坂と、瀟洒な建物群。いかにもミナト神戸らしいたたずまいの一角に、小川さんのスタジオがあります。大型のサウンドシステムや各種PA機器に囲まれて、音楽のネット配信を行うなどして世界中のアーティストやプロデューサーと向き合っています。

 

この日は小川さんオンリー。小川さんの一番弟子ともいうべき優秀なエンジニアの通称・岡ちゃんは不在でした。「この間も一人で鰻を釣りに行ってきたんです。明石川の下流へ。1週間に5日は出かけています」。え?いきなり鰻の話題?聞くと去年の夏から鰻釣りに凝り始め、大潮の時を狙ってわざわざ夜中に繰り出すことも多いという熱の入れよう。SNSで教えてもらった情報を元に、時には岡山の児島湾へも遠征。「一度凝り出すとのめり込んでいく性格なんですよ。しかもとことん研究しないと気が済まないんです(笑)」。

 

ほのぼのとした日常。今は鰻釣りに夢中の小川さんですが、かつてはZEBRAMAN(ゼブラマン)の名前でレゲエ界を席巻してきたヒーローでもありました「もう30年も前のことですし、私だけの力だけではありませんでしたから」と、昔を懐かしむZEBRAMAN。レゲエアーティストとしてのプライドと、周りに対する気遣いは今も忘れてはいませんでした。

 

◆人生を変えた英字新聞

 

高校卒業後は英語の専門学校へ。成績もパッとせず、単位が足らずに退学の危機にも直面。「ある日、電車の中で英字新聞を読んでいる外国人がいて、毎週水曜日に求人広告が掲載していることを知ったんです」。広告のターゲットは在日外国人。「どんな仕事があるのかわからなかったんですが、めっちゃ興津々でした」。

 

目に止まったのは、外国人の大道芸人の募集広告。広告主は、そんなパフォーマーをイベントなどに派遣する会社でした。外国人ではないのに?「ピンときたんです。何か面白そうだなと」。20歳の青年が自らこじ開けた社会への扉。これでもしかして退学回避&きっとチャンス到来。冒険心も旺盛な前のめりのキャラクターに、当時の社長も一目惚れし晴れて採用となりました。

 

時あたかもバブル絶頂期。全国どこもかしこもイベント花盛り。小川さんにとっての初仕事は、1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」(花博)でした。派遣先は大手清涼飲料水メーカーのテーマ館。そこでは、外国人ストリートミュージシャンやパフォーマーたちのタイムスケジュール管理が主な仕事。英語は通じたのでしょうか。「全然(笑)。わかっていないのにわかっているフリしていたことのほうが多かったです。それよりも、お互いが分かり合えましたよ。気持ちはシェアできてたと今も思います」。そんな仕事ぶりが認められ、その後は大手広告代理店に出向。プロデューサーとして全国のイベントを数多く経験し、20歳そこそこで大きな仕事も手がけました。「自信というよりプライドが高かったです。結構チャラい面も多かったんですが(笑)」。

 

◆レゲエは生き方そのもの

 

レゲエとの出会いは、入社まもなく。社内には外国人も在籍し、「特に黒人の上司から影響を受けました。音楽や言語だけでなく、奴隷解放をテーマにした映画にも刺激されました」。社会のルールと戦う主人公を、自分と重ね合わせる日々。「調子こいてヒゲを生やしていた時期があり、上司から注意されこともありましたけどね(笑)」。

 

レゲエ発祥の地・ジャマイカへ何度も足を運びました。地元の文化にもしっかり溶け込み、念願のレコーディングも果たせました。もちろん危険な目に何度も遭いました。数え上げたらキリがないほどのエピソードを抱え、ZEBRAMANは日々たくましくなっていきました。「現地で多くの人に支えられたからこそです。世の中、一人では生きていけないものなのだ、とも」。

 

初のシングルをリリースした翌年の1997年、神戸市内に待望のレゲエバーをシェアオーナーとしてオープン。全国各地からレゲエファンが集まり、「レゲエだけで食っていけるほど甘い世界ではありませんが、レゲエを愛する人たちの居場所がつくれたことがうれしかったです」。それでも決して忘れなかったのは、アンチオーソリティーの精神でした。仲間を思う気持ちと、若いころに培ってきた権力に屈しない強い意志と。「レゲエは単なる音楽ではなく、生き方そのものですから」。

 

とはいえ、経済的な理由でレゲエを諦めたり離れていく人は少なくありません。「私の場合、比較的自由に時間がコントロールできる仕事を、早くから模索していました。そこで出会ったのが、ライブハウスにつきもののコインロッカーの保守管理という仕事でした」。結果、レゲエバーはもちろん音楽配信を手がけるスタジオ業務との掛け持ちという、特異なワークスタイルを確立。「それぞれの職場で働くみんなを守りたかったからなんです」。

 

◆いい時にこそ第一線から退くべし

 

「42歳まで(レゲエバーで)バーテンダーをしていましたが、いつまでも自分が居座っていてはいけないのでやめました。今は店に顔を出しても15分ほど滞在するだけです」と、意外に控えめ。若い人たちが育ってくれることをひたすら願い、「一人勝ちしようなんて思ってませんから。レゲエバーの経営がそうであるように、みんなでシェアしていくという精神が大切なんです」とも。小川さん独自の世界観・シェアスピリット。若いころ、多くの人を束ねることが使命だったイベントへの豊富な経験があったから、培われてきたポリシーかも知れません。

 

以前レゲエバーで働いていた女性スタッフは、今では現地ジャマイカ支部でDJ AZOOの名前で、世界中からオファーを受けセッションをコーディネイトするなどして活躍中。かと思えば、優秀な感性とテクニックを持つ男性エンジニア・岡ちゃんに対しては、安定した仕事に就いておくべきだという親心で神戸市への就職を手助け。配属先の公園勤務では、300以上あるバラの品種を超短時間で記憶するという思わぬ才能の開花にも貢献しました。これからも、きっと優秀な人材が発掘されていくことでしょう。

 

専門学校時代の英字新聞がきっかけで花開いた、インターナショナリズムとレゲエとの出会い。「英語は25年間勉強し続け、何とか身につきました。上達の秘訣?それはやっぱり恋愛することでしょうね(笑)」と謎の発言。

 

好きなことだけで食べていけるのは、いつの時代もなかなか難しいものです。「お節介かも知れませんが、会社経営者や個人事業主でレゲエに関心のある人がいたら、ぜひレゲエ道を志している若い人たちにアルバイトでも何でもいいので、可能性を秘めた彼らにチャンスを与えてやってほしいと思います」と願わずにはいられません。

 

「いい時にこそ、第一線から退くべきなんですよ」。今夜ものんびり川で竿を垂れながら、激動のバブル絶頂期を懐かしがっているのかも知れません。

(取材・構成/池田厚司)