}

「体力の続く限りとことん。個人だからできることはいくらでもあるんですよ」。

2021.07.162021.07.16
タグ:

★RE:Wel代表/福祉フリーランス・豆夛英志さん(大阪府堺市)

とかく暗いイメージがつきまといがちな障害者福祉。典型的な縦割り社会に翻弄されたり、なかなかモノが言えない閉鎖的な空気に苛まれたり。そんな世界に風穴を開けたのが、豆夛英志さんです。独立して今年で4年目。障害者と社会をコーディネートする福祉フリーランス。組織を離れたからこそ実現できたワークスタイルが、そこにありました。

 

☆           

 

来年が鬼門の理由

 

大阪市城東区関目1丁目。のっぽのキリンさんが迎えてくれるカフェ・GAIA(ガイア)が、ひときわ異彩を放っています。いかにも女子ウケしそうなウッドデッキと明るい店内、そしてさり気ないアクセサリーやインテリアなど、ここが障害者の就労継続支援事業所とはとても思えません。今年4月にオープンしたばかりですが、ホールやキッチンでは、障害者がスタッフとしていきいきと働く姿があります。

 

見た目はカフェでも、自立を目指す障害者たちの職業訓練の場。平成18年に障害者自立支援法(現障害者総合支援法)が施行されて以来、雇用に対する社会の認識も少しずつ高まってきましたが、未成熟の部分も少なくありません。このような現状を打破すべく、障害者と雇用者とをつなぐ仕組みを構築し提案しているのが、福祉フリーランスの豆夛英志(まめたえいじ)さん。SNSなどでも幅広い交遊関係を持ち、もっぱら「豆ちゃん」の愛称で親しまれています。

 

今年44歳。「来年が鬼門なんですよ(笑)」。え?厄年でもないのに?理由は、25歳・35歳と節目の年に大病を患ったから。カポジ水頭症、やギランバレー症候群などの難病のほか、ドクターストップがかかるほど肝臓にダメージを負ったり、ある日突然パニック障害に陥ったり。「この次は45歳かなと、実はビビってるんですよ(笑)」。縁起でもないことは、とりあえず封印しておきましょう。

 

◆実妹がよきアドバイザー

 

ということで、今回のインタビューの場所はGAIAさんで。豆ちゃん曰く、「どのような職場で障害者たちが働いているのか、実際に見てもらったほうがいいと思ったので」。こんな職場だったら、きっと楽しく働けるに違いありません。

 

堺市出身。妹との二人兄妹。父親が運送業を営んでいましたが、豆ちゃんが25歳の時に急逝。ということは後継者の話も?「いや、妹がやめとけって言ったんです。兄ちゃんは経営者には向いてないからって(笑)」。

 

中高校生ではずっと親の仕事を手伝い、繁忙期にあたる始業式と終業式には出たことがなかったほどの働き者でしたが、結局運送業は廃業。当時看護師をしていた妹の推しもあり、看護助手として長期療養型病院や有料老人ホームなどに勤務。ところが、「お年寄りと接することは好きだったんですが、最期を看取ることが多い現場が辛くてしょうがなかったんです」。ショックが重なって、やむなく職場を長期離脱したことも。「でもやっぱり福祉の仕事がしたかったんです」。

 

結果、30歳を目前に控えて社会福祉法人の障害者就労施設の支援センタースタッフとして就職。豆ちゃんにとって、障害者福祉の世界へ一歩踏み出した記念すべきスタートでもありました。

 

◆声を上げることの勇気

 

18歳以上を対象とした、障害者雇用に関する業務。それが最初に就いた仕事でした。就職を希望する人たちの職業訓練から、面接を経て就職に至るまでをトータルにサポート。朝な夕なに、障害者と寄り添うことになりました。

 

当時は支援法が施行された直後だったせいもあったからでしょうか、「現実はかなり厳しいものがありました。障害者に対する配慮が単なる遠慮だったり、雇用先で障害者がお客様扱いされていたり。何より、情報の少なさ故に間違った解釈をして雇用を敬遠する企業も多かったです」。個々には働く意欲があり、しかも社会に適応できる能力も兼ね備えているにもかかわらず、雇用先がなかなか見つからない。「これは声を上げないといけない!とマジで思いました」。

 

それでも、大手スーパーや大型量販店、イベント会社などに働きかけ、1年間に就職者20人という目標を2年連続で達成したり、地元の自動車販売会社で洗車スタッフとして多くの雇用に結びつけたり、障害者がつくったトートバッグや小物入れなどを「つくって終わるだけじゃもったいない」と、知り合いのタレントに働きかけた結果ラジオ番組で紹介されたり。とかく縦割り社会にありがちな垣根を取り払いながら、走り続けてきました。

 

気がつけばすでに12年。多くの経験を積んできた豆ちゃんでしたが、「まだ足りないことがあったんです。それは雇用先である企業の中身をもっと知ることでした」。障害者の幸せは、働き続けられる環境が確立されてこそ。そう信じての独立でした。

 

◆まだまだ少ない情報発信

 

組織という呪縛から解き放たれた豆ちゃん。これまで自ら築いてきた人脈を、ようやく生かせる時がきました。でも経営者は向いてないと妹さんからハッキリ言われたのでは?「いえいえ、経営者ではなく個人事業主ですから(笑)。個人だからこそできたことがたくさんありましたよ」。知り合いのコンビニや居酒屋では、職業体験を快く引き受けてもらえました。中高生を対象にした放課後デイサービスでは、ゲストとして刃鍛冶職人やミュージシャンに協力を仰ぐことができました。2年前には、親子で参加できる台湾旅行まで実現させました。とりわけ、自身のラジオ番組を持ったのは、「情報発信の必要性を強く感じたから。障害児を持つお母さん方が知らない情報が、あまりにも多すぎるんです」。

 

時代が多様化することで、パワハラやモラハラなどが引き金となり、大人になってから障害を引き起こすケースが意外に増えています。さらにいえば、「ニートや引きこもりといった人たちを社会から排除してしまって、才能を見逃し人材として生かしきれていないことも多いんです」。障害者は、決して生まれつきだけでのものではない。「グレーゾーンにいる人たちにも手を差し伸べないと、社会にとっても大きな損失です」。

 

働くとは、誰かのための代わりをしてあげること。そして人のつながりを何よりも大切にすること。亡き父が生前よく言っていた「最後にモノをいうのは人脈やで」という言葉を、今改めて噛みしめています。

 

そして、来年の鬼門を何としてでも克服できますように。

(取材・構成/池田厚司)