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「ケガに泣いた甲子園。だから今は笑っていられる」。

2018.07.102018.07.10
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HARTYさん(大阪府岸和田市/レゲエアーティスト)

紆余曲折を繰り返しながら、レゲエのプロミュージシャンという夢に立ち向かったエネルギー。それを象徴するかのような目力。やっぱり元高校球児。アーティスト名の5文字には、自身と家族たちのイニシャルが込められています。何よりも、誰からも愛されるレゲエアーティストであるために。10月に開催される岸和田だんじり祭りでは、今年も大工方の大役を務めます。この日ばかりは、ソウルフルなハートボイスを封印。燃え上がる魂を奮い立たせ、だんじり男の花形としてのパフォーマーに徹します。

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◆最後の最後でアクシデント 

 平成15年8月。強豪校がひしめく香川県で、じわりじわりと力をつけ始めた香川西高校は地方大会を優勝で飾り、初の甲子園出場を果たします。香川への野球留学の成果が実り、地元岸和田が盛り上がらないはずはありませんでした。「名前が書かれた横断幕やのぼりなどがまちのあちこちにあって、これまでずっと野球をやってきた甲斐があったと、家族ともども意気揚々でした」。当時を振り返りつつ、「あんなしんどい練習していたら、この先何をやってもやっていけると思えたくらいきつかったです(笑)」。

第85回大会開幕がいよいよ目前に迫ったある日。キャッチャーからセカンドにコンバートされ、レギュラーの座にいたにもかかわらず、練習中に負傷。「ブチッというか、ガツンというか。ぞっとするような音がして、ああこれで終わったと思いました」。右足太股肉離れ。背番号4も剥奪。夢の甲子園もベンチ要員でしかなく、甲子園の土を踏んだのは伝令のためピッチャーマウンドに向かった2回だけでした。しかも試合は初戦で埼玉県の強豪校・聖望学園に17対4で大敗。高校卒業後は地元へ戻り、失意の日々。大好きだったものが、アクシデントによって絶たれた苦しみや哀しみ。しかし、そこで折れてしまうような元高校球児ではありませんでした。

◆心に強く「諦めない気持ち」 

物心がついたころから、レゲエという音楽が生活に密着。「親父がめっちゃ好きやったんですよ。だから違和感はまったくありませんでした」。野球の練習への送り迎えの際、車中BGMはレゲエ。家族でドライブする時も、もちろんレゲエ。ジャマイカ発祥の音楽が、まさか小学生まで酔わせていたとは驚きです。

自宅にはドラムセットがあり、しかも従妹がX-JAPANの大ファンだったことにも刺激され、幼くしてソウルフルな音楽への興味が人一倍だったそうです。「もちろん野球がメインでしたよ(笑)。でもレゲエも好きでした」。小学3年生で、すでにドラムが普通に叩けていたそうです。「俺って才能あるんちゃうかな、と(笑)」。高校に入る前、将来プロのミュージシャンになりたいので音楽の学校に行きたいことを父に告げた時、「思いっきり殴られました(笑)。アホか!野球で高校に行け!と、大反対されました」。

その後、当時の監督の勧めもあって野球部のある4年制大学に進みましたが、2年で中退。「もう未練はありませんでした。親父も何も言いませんでした」。こうして元高校球児は、本気でミュージシャンの道を歩み始めることに。「あのケガがあったからこそ、色々気づいたことがたくさんあります。もし逆にケガをしていなかったら、レゲエアーティストとしての自分はなかった気もするんです」。諦めない気持ち。それさえあれば、いつかまた笑える日がきっとくるのだ、と。

◆早々捨てきれるものではない夢 

本格的にプロを目指すべく、さまざまな活動を行いました。地元のスタジオで同じレゲエ仲間が集まって刺激し合ったり、オリジナル曲を引っさげて東京へ単身乗り込んだり、本場のレゲエを体感すべくジャマイカへ旅立ったり。さまざまなレーベルから声はかかるものの、決定打がありませんでした。音楽活動と平行して、さまざまな仕事も経験。大工や塗装業、ドライバーなどのほか、産廃物処理工場で体を張って仕事をしたことも。「収入は多かったですが、体はかなりヤバかったです(笑)」。

そうこうしているうちに、大学時代に知り合った奥様との間に小さな生命が芽生えました。男23歳にして、大きな転機でした。「あかん、このまま音楽は続けてられない。続けてる場合やない、と」。レゲエつながりの友人たちからは、かなり残念がられました。誰もが、才能のある青年の決断を惜しんだのでしょう。音楽と家庭の両立は無理だった?「中途半端は嫌だったんです。あの時点で一番大事にせなあかんのは、やっぱり家族でした」。

その後、生協のドライバーとして就職。「茶髪ではなくヒゲも剃ってましたよ(笑)」。単なる運転だけではなく、利用客相手に営業ノルマも。そして念願のマイホームも手に入れました。5年間という月日は、同一職場の期間としてはキャリアハイでもありました。「生活に余裕ができると、よからぬことを考えるものですね(笑)」。ああやっぱり。かくして、苦労をともにしてきた奥様に“一生のお願い”を乞うことになったのでした。

◆現プロ野球選手の登場曲にも

これが最後のチャンスでした。当時、すでに泉佐野市で開催が決まっていた「MISIC FESTA」の主催者に思い切ってデモCDを送付。しかも「かなりビッグマウスな感じで(笑)」。ダメ元で送ったつもりが、とあるプロデューサーの目に止まることに。200枚以上送られてきたCDの中のたった1枚がきっかけで、このイベントのオープニングパフォーマンスに急きょ大抜擢され、他の有名アーティストと肩を並べるほどのインパクトを与えたのです。

これをきっかけに、知名度・人気ともに急上昇。同じレゲエでも、ややポップス系にアレンジした親しみやすさのオリジナル曲が受けて、幅広い年齢層に支持されるまでになりました。FM OSAKAのヘビーローテーションでもブレイクし、地元のテレビ局にもレギュラー出演しつつ、結婚式場のCMソングにも起用。何より印象的だったのは、かつて同じ野球仲間だった堺市出身の現広島東洋カープ・白濱裕太選手の登場曲にも使用され、レゲエのパワフルな旋律があのマツダスタジアムを席巻したことです。去年12月には念願のソロライブも成功を収め、その人気をついに不動のものにしました。

もう迷いはありません。いつのまにか、甲子園を超えていました。「多くの人に恵まれ、そして支えてきてもらえた人生でした」。その言葉は、岸和田だんじり祭りで大工方として空を見上げた、すべての人への感謝の気持ちそのものなのかも知れません。野球に燃え、「全員野球」をテーマに掲げて甲子園を目指していた、あのころのように。

 

(取材・構成 池田厚司)