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「ゴールが無いからこそ、料理は楽しいんです!。」

2018.08.212018.08.21
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★ 北原 信一さん(埼玉県さいたま市・49歳 / 洋食屋『Benkei』経営)

「自分の家に帰るような気持ちで、お店に来て欲しい……」そんな憩いの空間を目指して、ここ埼玉県岩槻区に洋食屋『Benkei(べんけい)』を構えるのは、はにかむ笑顔が素敵なご主人、北原信一さん。高校を卒業後、数々のイタリアンレストランを渡り歩き、確かな腕を身につけたシェフが行き着いた先は、家庭的で寛ぎ易い、温かな店作りでした。

◆受け継いだ思い

現在、この店を寿司職人のお父様と2人で切り盛りしているという、北原さん。そのためメニューには、洋食から和食まで幅広いメニューが顔を揃えます。サーモンのマリネもあれば、出汁巻き玉子もあります。どれも美味しそうで、思わず一品、二品、多く頼んでしまいそうです。またお店の名前『Benkei』の由来は、お父様の小学校時代のあだ名です。「本当は父が自分の店を出す時に付けたかった名前なんです。ですが、修行していたお店の親方から暖簾分けで『魚がし(うおがし)』という名前を頂いたので、付けれなかったんです。」お父様の想いを世代を越えて受け継ぐその姿勢に、北原さんの温かさを感じることが出来ました。

実は北原さん、小さい時の夢は、ラーメン屋さんになることでした。それも、屋台のラーメン屋さんです。そのため高校時代はラーメン屋でアルバイトをしていました。「漠然とですが、将来はラーメン屋をやっていると勝手に思っていましたね。」しかし、食堂やステーキハウスのアルバイトをしているうちに、色々な料理を作ってみたくなり、幼い頃に描いたラーメン屋の夢は儚くも散ってしまいます。高校時代は部活とアルバイトの日々……と思いきや、読売ジャイアンツの私設応援団にも所属していたという、北原さん。週末は球場で応援に精を出し、バレーボール部の練習とアルバイトで、まさに過密スケジュール体勢でした。そんな忙しい中でもステーキハウスのアルバイトは、楽しい仲間に恵まれ、長続きました。気の合う仲間に優しいオーナー、尊敬出来る先輩に初めて出会ったのも、この頃でした。

◆導かれた出会い

高校卒業後はステーキハウスのオーナーの紹介で、日本料理のお店に勤めます。下っ端の北原さんの仕事は、もっぱら鍋磨きと包丁研ぎです。毎日退屈な日々……さらにお店が繁盛していなかったことも輪を掛け、すぐに辞めてしまいます。「2ヶ月持たなかったですね……」紹介してくれたオーナーに事情を話し、ステーキハウスに復帰します。高校時代から慣れ親しんだお店、楽しい仲間、しかしお店の景色が少し違いました。高校時代は空いた時間に小遣い稼ぎで入っていたアルバイト。フルで入るアルバイトでは、先輩の手際の良さや要領の良さがより良く目に映ります。「自分もこんな風になりたい。」プライド高く、全てがカッコ良く見えた先輩に憧れます。そんな時でした「イタリアンの店に一緒に行かないか?」と、先輩に誘われたのは……迷う理由はありませんでした。この件をきっかけに北原さんは、イタリアンの世界に足を踏み入れるのです。

イタリアンレストランでの仕事は、もっぱら下準備です。野菜を切ったり、エビの皮を剥いたり、先輩方が気持ちよく料理ができるよう、気を配ります。慣れない作業で同期が苦労している中、長年飲食で働いていた北原さんにとっては、容易い作業です。食材の勉強も進んでしました。今となってはメジャーなルッコラやタラゴンといった香草、そしてオリーブオイルも、25年前の当時は馴染みも無く、ただただ新しい知識として、名前や効能を頭に叩き込みました。「仕事を覚えるのは早い方でしたね。」それには理由がありました。当時直近に居た中国人の先輩の教え方が凄く嫌だったんです。言っていることは最もなんですが、どこか癇に障ってしまって……。それで一刻も早く対等以上になりたくて、自然と覚えるスピードは上がりました。でも今となっては、凄く感謝しているんです。仕事を早く覚えることで沢山の先輩に気に入られましたし、そのお陰で、他の人に比べれば直伝の技やレシピも教えて貰えましたから。

◆経験は財産

イタリアンに足を踏み入れてから現在に至るまで、10店舗以上もの店を渡り歩いたという北原さん、小さなカフェから、大型店、そしてオープン費用だけで数億円といった高級店でも腕を振るいました。中でも新宿歌舞伎町のど真ん中にあったカフェでは、大車輪の働きをしました。当時コマ劇場という大型の劇場があって、公演があるとものすごい人がお店に押し寄せるんです。それこそオムライスを一日200食以上作った日もありました。また、お店によってやり方は様々です。小さな店舗では、一通り全てをこなさなくてはなりませんが、大型店ではパスタ場、サラダ場、ピザ場といった持ち場が儲けられ、それぞれが分担して料理を準備して行きます。ピザ場を任されることが多かった北原さんは、薪釜の温度を気にしながら、一枚一枚、丹念に焼き上げます。「薪釜は、奥と手前で温度が違うんです。」釜の奥は温度が高く、手前は低温です。カラッと焼き上げたい時は奥へ、じっくり焼き上げる時は手前に。カルツォーネを作る時なんかは、高温で一度生地を膨らまして、それから手前でじっくり焼き上げます。サラダ場ではドレッシングの味が生命線です。自分の舌を頼りに味を整えて行きます。この時の経験が、今の北原さんの原点なのかもしれません。

◆料理人としての想い

そんな忙しい日々を送っていた北原さんに転機が訪れます。実家のお父様からお店を一緒にやらないかという誘いです。「正直、迷いは無かったです」お寿司とイタリアンの融合……どんなものが出来るのか楽しみでした。開店当初は話題になって、お店には行列ができました。しかし、売り上げは徐々に減少……材料費が高く付いてしまったんです。和食とイタリアンでは、扱う食材が違います。お店の入り口は一つなのに、材料費は2倍になってしまったんです。今までは料理のことだけを考えていれば良かったのですが、経営のことも考えなければならなくなりました。しかし、妥協はしていません。サーモンマリネのドレッシングは、当時の味をしっかり再現していますし、サラダのドレッシングも、一杯目はフレンチドレッシング、お替わりをして下さったお客様には、こだわりの和風ドレッシングで、味を変えて提供しています。もちろんメインのパスタにも隠し味を使っているそうで、聞けば聞くほど料理に対する熱い想いが溢れ出て、材料費が高く付くのも納得でした。(笑)

当面の目標は、オリジナルレシピです。たくさんの方々のお陰で、料理人としてのベースは身に付けました。今度はそこから、自身の味を一品でも多く生み出して行くことです。現在も試行錯誤を重ね、デザートピザを開発中です。北原さんは言います。「料理人にゴールはないと……」これからもお客様のため、イタリアンのため、そしてイタリアンと和食の融合のために、見えないゴールへ向かって、走り続けます。

(取材・構成  内藤英一)